相対正義論

ピコリ

Prologue

 東京某所。真夜中。誰もいない地下駐車場。
 恭士が喧嘩を終えて顔をあげると、そこに金髪の若い男が立っている。金色の目を光らせて、それは人間ではないような超然とした態度で恭士に近づく。
 つい今しがた人間離れした力でチンピラを肉塊同然にした恭士に対して、なんの恐れも抱いていないかのように、小馬鹿にした調子で男がたずねる。

「お前、俺と協力しないか?」
 恭士が小馬鹿にしたように笑う。
「協力?あほか、現状見て言え。みんなもう動かネぇ、遊び相手がいなくなってつまんねぇんだ……ナアお前、俺の暇つぶしにつきあえよ。」
 そういった恭士の目前に、いつの間にか金髪の男が立っている。
「お前、殺しがしたいんだろ?」
 人間技ではない、一瞬のうちに10メートルはあろうかという間合いを詰めたのだ。
 少々驚いたのはつかの間、瞬時に恭士は不敵な笑みを浮かべて金髪の男に殴りかかる。右手で一撃、左手で一撃、そのどちらもすんでのところでかわされる。
「気の短い奴だな、まあそうでないと。」

 金髪の男は相変わらず恭士の攻撃をよけながら、薄い笑みを浮かべている。
 恭士の心が躍った。
「お前、俺と同じだな。」
 自分と同じ、そう、鬼人。人間よりもはるかに優れた身体能力を持つ鬼人は、けんか相手にもってこいだ。
「少し違うか。人間以上って意味では、お前と同じだけどな。俺の名前はロキ。」
 相変わらずすんでのところで恭士の攻撃をかわし、ロキは何事も起こってないかのような落ちついた声で話を続ける。

「霧咲恭士、お前がDINOのトップなのはその高すぎる矜持(プライド)のためだろ?おまえは本当は組織をまとめるよりも喧嘩がしたいはずだ。」
「はっ、それがどうした。」
 恭士の横蹴りがロキにあたり、ロキが吹っ飛ばされる。ロキは地下駐車場の柱の一本にぶつかり止まる。あまりにも恭士の蹴りが強く、ロキがぶつかった柱の一部が砕ける。普通の人間だったら死んでてもおかしくない。

「けほっ、予想以上に利いたな……。」
 がれきの中から起き上がりつつぼやくロキの目前では、すでに恭士が拳を構えている。
「そして予想以上に早い。」
 そう言ったロキの顔は相変わらず不敵。
 追い打ちを加えようとした恭士を思い切りけり上げ、天井にたたきつける。地下駐車場でない普通の天井だったら、おそらく抜けていただろう。

「そして頑丈さは折り紙つきみたいだな。」
 恭士は即座に天井を蹴り飛ばし、稲妻のようにロキに向かっていた。
「ばぁっか、話は最後まで聞け。お前だって俺みたいな好敵手とたくさん戦いたいんだろ?だったら俺と協力しろって……言ってんだ、よっ!!」
 恭士のクローをかいくぐって、ロキが思い切り恭士にアッパーをくらわす。

「っ……つー、頑丈な奴め、こっちの拳が痛くなる。」
 脳に強力な衝撃を受け恭士の動きが鈍ったのを見ながら、相変わらず落ち着いた調子でロキは言う。

「血の気余りすぎだろお前、まあいいや。今度、ここに描いてある所で面白い事件が起こる。」
 ロキが懐からいっぺんの紙を取り出す。紙片には、簡略な地図と、日付のような文字が見て取れる。
「興味があるなら行ってみな。お前が望む、殺しがいのある奴がいるはずだ。俺のケータイ番号も書いてある。そこで会った奴が気に入ったなら、俺に電話をかけると良い。」
 紙をロキが恭士に投げる。恭士に蹴りを食らわせる。恭士が後ろにノックバックしている間に、来た時と同じ一瞬のうちに、まるでかき消えるかのようにいなくなる。すべての行動が終わって少ししてから、ロキの投げた紙が地面に落ちた。

 恭士の眉間に、深いしわが寄る。
「なんやあいつ……ふざけよって。」
 恭士はロキの落とした紙を拾い、一瞥し、破り捨てる。肉塊となったチンピラには目もくれず、地下駐車場を抜け出す。

 頭の悪い奴じゃないと思うが、いかんせん血の気が多すぎる。
 鼻から出た赤い液体を拭い、ロキが思う。
 一瞬のうちに地下駐車場を抜け出したロキは、繁華街を見降ろすビルの屋上にしゃがみ、夜の街を行きかう人々を眺める。こんなにたくさん人間はいるが、鬼人はこの中に1人か2人、いるかいないか。

 ロキは、自分の手足となり使える「鬼」もしくは「鬼人」を探していた。
 鬼がこの世界から消える瞬間放出する【怨気】、また人間が持つ【魂】は、人間が知らないだけで素晴らしいエネルギーを持っている。それを集めるためには、自分ひとりでやるより手ゴマを持っていたほうが効率が良い。
 また、ロキは【来るべき日】のために戦力を必要としている。使える奴は多いに越したことは無い。

 まあ、鬼の力を解放して興奮状態にあったあいつと接触した俺も少々うかつだったか。
 先ほど恭士を殴り飛ばした拳が、ジンと痛む。春の夜の、暖かくなり始めた空気の匂いを嗅ぐ。前に嗅いだことのある、子供の姿をした鬼の臭いが混じっている。

 鳴子童子とか言ったか。この世を恨んで成るものが鬼だが、あの子供の姿の鬼はそれがさらに屈折している。ロキが手足として使うことはできないだろうが、放し飼いにしておいて損になることもなさそうだ。あいつの思惑は知らないが、鳴子童子は鳴子童子で、鬼を増やそうとしているようだ。
 まあ、そんなこと俺には関係ないな。上機嫌なロキが、ポケットに入れたケータイを撫でる。

「さ、他にいいのはいないかな。」
 あいつは絶対電話をかけてくるだろう。

 確信を抱きながら、繁華街の人波の中に紛れる。
 町はまるで何事もなかったかのように夜を続ける。

藤城事務所

「お、殺人事件か。ふーん、最近続くな。」
 殺人という無粋な話題を言うのにふさわしくない、間の抜けた声。
 黒髪の青年が新聞を読みながら、大あくびをする。青年というには少し遅いか、見た目は30代前半程度、乱雑に伸ばした黒髪は左側だけ耳にかけ、もう片方は目にかかるかかからないかの長さ。髪のすぐ下では黒ぶち眼鏡に縁取られた、眠そうな、だけど強い力を持った青い目が輝く。顎には無精ひげと呼ぶには長い、だけど伸ばしているわけでもない、それこそ無造作と呼ぶにふさわしいヒゲが生えている。

「の割に、うちの事務所への依頼は増えないなぁ。」
「藤城さん、不謹慎ですよ。」
 部屋の奥、ドアに近いデスクから、鋭いツッコミが入る。藤城の座っているデスクを含めて机は5つ、それほど広い事務所ではない。突っ込みを入れた女性の、怒った表情がはっきりと見える。ひっつめ髪と呼ぶのがふさわしいだろうきっちりとまとめられた黒髪に、燐と光る黒い瞳。赤い縁の眼鏡がわずかな彩りを添える以外、スーツも靴もすべて黒に統一されている。

「ったって、今月も全然依頼は無いし……これ以上閑古鳥が鳴いたら、お前の給料だって危ないんだぞみゃーこ。」
 みゃーこと呼ばれた女性と藤城以外、事務所の中に人はいない。3つあるデスクのうち1つはパソコンが一台置かれているだけで、特に誰の机といった特徴もない。おそらくは臨時の際使用するものなのだろう。
「だったら、学校の臨時教師の仕事増やすとか、鼻血吹いてでも仕事探しに行けばいいじゃないですかぁ!私はこのあたりで起きた鬼による事件の統計とか、今月の食費とか光熱費とか、国に払う税金とか経費とかの計算で忙しいんですう!!いくら藤城さんが夜の時間帯の担当だからって、所長なんですからここにいる間は仕事してくださあああああい!!」
 みゃーこの絶叫とともに、時計がちょうど正午を告げる。

 事務所の扉が開き、青い髪の青年が顔をのぞかせた。
「また叫んでたんですかみゃーこさん。」
 前髪だけを伸ばした、いまどきの若者らしい髪型に、湖のように落ちつき払った緑の瞳、ラフに着ながしてはいるが決してセンスは悪くない服装。年齢は大学生くらい。手にはコンビニ袋を持っている。

「ちょっとお清水君!まるで私が理由もなく叫ぶみたいに言わないでください!!」
 みゃーこの絶叫も気にせず、清水が藤城にコンビニ袋を差し出す。
「これ、差し入れ。どーせまた何も食べてないんでしょう?」
「おお、悪いな清水!じゃ、12時になったし休憩!お昼ごはんにするか!」
 コンビニ袋の中には、おにぎりとパン、飲み物と弁当がそれぞれ3っつ入っていた。
「私の分もあるんですか?!」
「ええ。みゃーこさんダイエットとか言って少ししか食べないでしょう。それで昨日倒れたじゃないですか。」
 そう、みゃーこは空腹と絶叫により倒れたのであった。
「しっかり食べて下さいよ。別に俺はみゃーこさんが毬のように丸かろうが魅力的だと思うけど、低血糖で倒れられるのは迷惑ですから。」

 魅力的、と迷惑二つの単語でみゃーこが怒るか照れるか行動をとりあぐねてる間に、藤城が話を進める。
「なあ清水、なんか依頼になりそうな話ころがってないか?」
「そういうことだと思って、少しばかり鬼とかかわりのありそうな事件を集めてきましたよ。」
 入口を入ってすぐにある、来客用の机に持っていたトートバックを置く。向かい合わせいなったソファーの対面に座り、資料をあさる。ハムサンドの包みを破りながら、清水が不敵に笑う。
「まず、不良少年の怪死事件。10日前でしたか、地下駐車場で肉団子状態にされていたアレですが犯人はいまだ不明。あとは3日前、高架下で起こった首の持ち去り事件、被害者の血液はすべて抜きとられていた異常な事件です。いずれも人間業では考えられませんね。」

 大学ノートと呼ぶにふさわしい簡素なつくりのノートをめくりながら、淡々と清水は読みあげる。
「それとチンピラばかりが狙われる連続殺人事件、執拗に似たタイプの人種を狙う事件は鬼の関与が疑われますが、それくらいかな。確実に鬼のものと言える事件は、すでに匂色機関が乗り出したようです。」
 グロテスクな内容の話をしながら、平然とハムサンドを食べる。
「あと、高校生の相次ぐ失踪。今のところめぼしい事件はこのくらいでしょうか。」
 子供、特に幼児期や思春期の子供は鬼にとって素晴らしい獲物だ。すべて跡形もなく食いつくし、警察では失踪のまま事件が片付けられることも珍しくない。もちろん鬼という存在を知っている者にとっては、それは単なる失踪ではないのだが。

「鬼に関係しそうなのはこれくらいですね。魔物は今、竜一さんが調べていると思います。」
「おおわかった、ありがとうな。」
 どういたしまして、という風情で清水が薄くほほ笑む。
「とりあえず、一番最初の──肉団子?それが確実に鬼の仕業のようだな。そっから調べてくか。」
「合点承知の助」
「……清水お前、ときどきやたら古い言葉使うよな。」
 そうですか、と問うた清水についでに言う。
「あと、殺人事件の話するのにハムサンドといくらおにぎり、トマトジュースとミートソースパスタ弁当はやめてくれないか?」
「みゃーこさんのダイエットに役立つかと。」
 なるほど、みゃーこは弁当に少し手をつけただけでさっぱり食事が進んでいない。

「清水さんの鬼いいいいぃいいいい!!」
 みゃーこの絶叫は、狭い藤城事務所をこだまし、開け放たれた窓から青い空へと飛んで行った。

警視庁少年課

「肉団子事件?わっ、凄惨っす!」
 そう声を立てたのは、浅黒い肌に黒い髪、黒い瞳をいかにも健康そうに輝やかせた青年だった。
「鈴木、この事件はお前にはまだ早い!」
 そう言いきったのは無造作に濃い茶色の髪を伸ばし、無精ヒゲまではやした刑事だ。体躯は引き締まっており、顔に刻まれたシワ以外に年齢を感じさるところはない。

「城島さん、少年犯罪かじゃなかったっすか?どうしてこんな資料を?」
 鈴木が、城島の持った資料を怪訝そうに見る。
「事件は2週間前、5月1日。おそらく深夜に起こっている。被害者は原型をとどめないほど強い打撃を受けている……殺人事件、一課の仕事っすよね。」
「まあな。だが俺が請け負っている家出少年の特徴と、ガイ者の特徴が一致しててな……まあぐっしゃぐしゃだから血液型と身長とか体格とか、その位だが。もしかしたら、と思って調べてたわけよ。」
 鈴木の顔が曇る。
「人間業とは思えないっす。にしてもその事件の被害者がその家出少年だとしたら、結構な恨みを買ってるんじゃないっすか?」

 鈴木が言うのは、家出少年が起こしたとされている事件のことだ。彼らは俗に言うストリートギャングの一員で、恐喝や暴行、窃盗などおおよそ人に憎まれるような人間であったということである。
「4月26日にも、確か路地裏で彼らの犯行とみられる殺傷事件があったじゃないっすか。」
 4月26日未明 深夜バイトから帰宅途中の青年2人が襲われ、1人が死亡1人はいまだに意識不明の重体で病院にいる。死亡した青年真木 隼人(18)もまた素行不良少年グループの一員と見られ、犯行は彼を狙ったものと思われる。

「報復ってやつじゃないすかね。」
「さあな、昔の?と違って、いまどきのこういう連中にそう言う仁義は無いからねぇ。」
 城島が渋い表情で煙草に火をつける。
「にしても、もう一人のガイ者は別に不良でもなんでもない普通の青年だったっていう話じゃないですか。巻き添えなんていい迷惑っす。」
 正義感の強い鈴木らしい台詞だ。
「関係ないんだよ、あいつらにはな。まったく人間もお行儀悪くなったもんだ。」

 城島が、ふーっと長い溜息をついた。
「まあ、今回ばかりはお行儀が悪いのは人間じゃないかもな。」
「え?」
「なんでもねぇよ。ところで鈴木、お前が受け持ってた事件の進捗状況はどうなんだい?」
「ああ、別件での高校生の家出捜索っす?まだ見つかってないっす。」
 鈴木が請け負っているのは、2日前、家出した高校生の捜索である。
「気になるのは少年が失踪する前残した、殺されるっていう言葉っすかね。」
 高校生の面影を残すような若い鈴木の笑顔。
 城島は渋い表情で鈴木の笑顔を眺める。

 紫煙が広がり、ゆっくりとと消えていった。

桜華学園

 桜華学園は都内にある、創設100年にも及ぶ歴史的な外観を持つ学校だ。
 初等、中等、高等学校がひとつになった形式の学校で、敷地は広くない。生徒数が少ない分、噂はあっという間に広がる。

「知ってる?羽取先輩、怪我治ったらしいよ。」
 女子の甲高い声は、聞こうと思わなくても耳に入ってくることがある。先ほど終わった科目の教科書を片付けながらも、それは嫌がおうにも耳についた。
「羽取先輩って、1週間前にチンピラに殴られて入院してたあの人?」
「そうそう。学校で禁止されてるバイトやってて、そのとばっちりで殴られたなんて運悪いよねー。」
 心からの同情ではなさそうな、他人の不幸を楽しむ声色だ。
 本当にくだらない。泉谷渓は、これ以上耳に入るのも不快だという風情で教室を出ていった。

 かといって行くあてがあるわけでもない昼休み。家の者が用意してくれた弁当を持ち、いつものように屋上に向かう。どこにでも人というものはいるもので、屋上もまた例外ではない。もはや昼食をとり終わったのか、左のほほにバンソーコーを張った生徒が転がっているのが見える。

 渓は、人の気配を避けるのがうまい。屋上に出ると決まって非常階段を一段降り、非常口と書かれた扉の傍らに腰掛ける。屋上の喧騒も、非常口の向こうの生徒たちの喧騒も、ここでは遠い。完璧とは言えないが静かな環境で、渓はやっと落ち着いて弁当の包みを開きだす。
「あ」
 驚いたような声に視線を向けると、黒髪に黒い瞳の少年が立っていた。
「なんだよ、先客あり?いい場所見つけたと思ったのに。」
 末っ子のような、拗ねた顔をする。見つけた、ということはこの少年も新入生なのだろう。
「ま、いいや。」
 少年は去るわけでもなく、さして遠くも近くもない場所に腰掛けた。手に持っていた袋を広げ、購買で買ったのであろうエッグトーストをおもむろに食べ始める。渓の瞳に一瞬軽蔑の色が見えたが、感じさせる間もなく少年から興味を逸らし手を吹き始める。
「なに、お前の弁当すっげー豪華じゃん!これ一個頂戴。」
「あ、やめてください!」
 止める間もなく、少年は渓の弁当箱に手を突っ込み煮魚を食べた。
「ん、うまい」
 喜ぶ少年を横目に、渓は嫌悪感を隠さずに弁当箱を閉める。

「なんだ、食べないの?」
「あなたが手を突っ込んだ弁当なんて……食べられるわけないじゃないですか。もう、いらない。差し上げます。」
 そう言って少年に弁当を押し付けて、渓はその場を去ろうとする。
「なんだよ人をバイキンみたいに!」
 睨みつける渓の顔を見て、少年が何かに気付いたような顔をする。
「アンタ……泉谷の?」
 泉谷の家系は、代々続く鬼祓いの術師の家系だ。顕著な特徴として、代々青い髪、青い目の子供が生まれる。渓もその例外にもれず、日に輝く水色の髪、青い瞳をしていた。泉谷の術師として特徴的な、霊力を込めた長い髪。中性的な顔立ちも手伝って、学生服でなかったら女の子と間違われることもあるだろう。

 イエスともノーとも言わず振り返った渓に、少年は憎しみともとれる、憧憬ともとれる複雑な瞳を向けていた。
 新入生らしく、胸にネームプレートをつけていることに渓は今更ながら気がついた。
『二宮』
 大した感慨も抱かず、渓はその場を去った。

警視庁刑事部捜査一課特異犯捜査第二係

「今月で3件目やね。依然首は見つかっとらん。なァ、これ人間の起こした事件なんと違う?」
 ショートカットの黒髪の女性が、紫色の鋭い視線でファイルに目を通す。彼女が言うのは、5月の初めから現在まで2週間近くにわたる連続異常殺人事件のことである。
 高架下で起こった首の持ち去り事件を発端として、似たような事件がこれで3件目にもなっている。被害者はいずれも身元不明。体中の血液を失い、かつ首のない状態で発見されている。いずれも身元を特定できる衣服などは身に着けておらず、被害者の年齢が10代から20代程度の若者であるということ以外重要なことはわかっていない。

「なんで犯人が人間だと思うん、理由を言ってみぃ霧咲。」
「だって、食人系の鬼やったらこんな半端な【食い残し】はせえへんやろ。吸血系の鬼やったら、首を持っていく意味がわからん。こういう中途半端なことするんは、人間の異常者なんじゃないん?」

 警視庁刑事部捜査一課特異犯捜査班、通称【異犯】は人間以外の凶悪事件、つまり【鬼】や【魔物】という人間ではない者たちが起こした犯罪を調査する部署である。鬼という存在自体が一般で認知されていないものであるため、警視庁の中でも異犯の真実の仕事を知る者はほとんどいない。
 コールドケースとされている事件も、異犯においては解決している場合があるが、これは公表されない。それは鬼というものの存在を公認する行為が市民に与える影響が大きいと考えた内閣府の考えがもとである。
 よって異犯は、公には一課内において特に異常性の高い事件に対応する特殊部隊的役割だと認識されている。

「人間の起こした事件はうちの管轄外や。」
「智恵美、お前めんどくさいだけやろ。」
 上司と思しき男性が、ふと表情を緩めた。
 赤い瞳は垂れ目で、眼鏡をかけていてもやさしい目だとわかる。ほとんど白に近いような薄い茶色の髪が、この人物が柔和な人物であるという印象を強めている。

「せやかて成田さん、警視庁にやっとこれたかと思えば全然見当違いの事件ばかりなんやもん。」
 霧咲智恵美は普段の印象は厳しいが、成田の前では部下然とした態度になる。それだけ成田を信頼している証でもある。
「まだこっちには来たばかりなんやから、智恵美の探しものだってそうそう見つかるもんでもあらへん。ま、気長に、気長にな。」
「成田さんは気楽でええわ。」
 決してバカにするようでなく、親しみを込めて。

「あ、そや、この事件のガイ者のことを、少年課の城島って人が聞きに来たわ。情報課のデータベースで調べるより詳しく聞きたいとかやったんやけど、あの人鬼のこととか知らへんようやったからガイ者の特徴以外は適当にぼかして伝えといたで。」
「りょーかい。」

 今回の事件に使われたと思われる凶器は【歯】
 首を切断したとみられるのは普通の刃物、おそらくは斧のようなものではあるが、直接の死因となったのは首筋に残された【歯型】であり、頸動脈を食い破られ、そこから大量の血液を失ったことによる失血であると推測されている。
 死体に通常現れる血液の沈殿である死斑が見られず、死体はまるで人形のように現場に転がっていた。切断は死後に行われたものであると司法解剖の結果明らかになっている。

「血痕は現場に残されてない、どこか別のところで殺害して、いらなくなった部分を現場に捨てたんやろか。鬼の仕業だとしても矛盾だらけや。わざわざこんなところに捨てるよりは山奥とかに捨てたほうが見つかりづらいし、首を切るなら歯型部分も切り取ったほうが普通の猟奇事件に見せかけられたはずや。単に用心のために首だけ隠したとしても、なんでこないな目立つ所に体を捨てなあかんのやろ。まるで──」
「見せつけてるみたいやな。」
「せや。」
 大抵の鬼は人間に見つかるのを嫌って食べつくす。わざわざ目立ちたがる鬼など、聞いたことが無い。
「こういうのは、ナルシストな人間の異常者がよくやる手法や。」

泉谷家

 泉谷の家は、古くから続く神主の家系である。9代目に当たる渓の祖父が実直な性格であるため数は少ないが、使用人もいる。
「おかえりなさいませ渓様」
 父は普通のサラリーマン、母は普通の主婦、ごく普通の家に生まれた渓がこの家にやってきたのは、彼がまだ小学校に上がるまえだった。
 この家に来るきっかけとなったのは、妹の葬式だった。渓は妹のことをよく覚えていない。棺に寄り添って泣く母、それを慰める父、茫然と見守る彼に、そっと手を置く祖父。

「あなたが、渓ですね?」
 祖父の最初の印象は、ひどくやさしそうで、儚げな人だった。渓や父と同じ水色の髪を長くのばし、女性のように見えないこともないような中世的な面立ち。年齢は当時で50歳にはなっていたのだろうが、見た目は父と大差ないように見えた。祖父は渓をやさしく抱き上げると、母の傍らでうつむく父にやさしく、しかし一本の矢のようによく通る声でこう言った。

「渥(あつし)、約束通りこの子は今日から泉谷の家で育てます。」
 父がこちらを見ることもできず、ただうなづくことで肯定したのを、今でもよく覚えている。ただただ広い部屋に怯えていた渓を抱いてくれた母も、小学校に上がるころには亡くなった。父はまだ、どこかで普通の暮らしを続けているという。だが特に興味もない。

 制服から普段着の着物に着替える。洋服も持っていないわけではないのだが、特に外出の予定のない時は和服を着るときのほうが多い。祖父を訪ねてくる来客の応対など、和服のほうが都合がいいということもある。

 リンリンリン

 着替え終わったとき、玄関の呼び鈴がなった。祖父は留守だ。使用人が出るだろうが、家人は今自分ひとりだ。特に何もすることもないし、後で呼びつけられるのも面倒だ。渓の部屋は2階なので、階段を下りる。
 廊下の向こうから、二人の声。新しく入った使用人の紗奈と、来客のものであろう若い女性の声だ。

「ですから、旦那様はただいま外出中でございます。」
 鬼退治の家系の術師という職業柄、異犯と呼ばれる鬼の事件を扱う刑事が祖父を訪ねてくるのはよくあることだ。もう一人の使用人、ばあやの多美なら祖父が不在の際刑事をうまくあしらうのだが、紗奈はまだ慣れていない様子でオロオロしている。

「いいよ紗奈、僕が聞こう。」
「でも、多美さんから渓様には取り次いではいけないと……」
 口を滑らす子だなぁと思いながら、いいからいいからと紗奈を追い返す。多美は渓がこの家に来るずっと以前からこの家で働いており、渓のことをまだ子供だと思っているのか、決して警察関係者の話を耳に入れさせようとはしない。流石に寄る年波には勝てないのか、つい先日ぎっくり腰を起こしたため暇を与えられている。

 僕だっていつまでも子供ではない。
「本日は祖父がおりませんので、僕が代わりにお話しします。」
 来客は出てきたのが年齢の若い渓だったせいか、すこし驚いた様子だ。赤紫色の瞳をぱちくりさせる。
「なんや、えらいかわいらしいお嬢さんやな。ま、ええわ。一昨日起こった事件のことなんやけど、その件でちょっと聞きたいことがあってな。」
 お嬢さんと言われたことが少し引っかかったが、それよりも事件の内容に気を取られた。黒髪の若い女刑事と客間で対面する形で座る。霧咲智恵美と名乗った女刑事は、自らの警察手帳を差し出してから事件のあらましを話し始める。

 事件が起こったのは一昨日5月8日、おそらく深夜。住宅街とも商店街とも言えない、中途半端なオフィス街のような建物が並ぶ高架下でそれは見つかった。
 首を刈り取られた、おそらくは10代後半の男性の遺体。血液は全部失われており、致命傷となったのはおそらくは首筋にあった噛み傷だという。

「こういう妙な癖を持つ鬼、知っとる?」
 渓は考え込む。
「いえ、古い鬼ではこういうことをする鬼は存じ上げません。鬼だとしたら、新しい鬼でしょうね。」
 泉谷家は、術師として戦ってきた鬼の記録がある。それは泉谷代々の当主となるものにのみ伝えられ、外部に持ち出されることは許されていない。もし蔵書の記録を外部の者が聞き出したいときには、今回のように泉谷家のものに直接聞く必要がある。いちいち面倒くさいが、それは情報が漏れることを防ぐための泉谷の防衛策でもある。渓はまだ家督を継いでこそいないものの、当主になるべく一通りの鬼の記録、術、歴史には目を通している。

 一部を持ち去るのは、その部分に何らかの恨みやコンプレックスを持つ鬼である場合が多い。
「それに、鬼だとしたら不可解ですね。精気ではなく肉を食らうタイプの鬼なら、首を切る際道具など使わなくとも素手でもぎ取れるはずです。歯で食いちぎるような野蛮な食事方法をとる鬼が、首を持ち去る時だけ道具を用いるというのは……。」
 結局渓にもわかることは少なく、女刑事は帰った。
 刑事が帰った後、渓は事件があったという高架下へ向かうことにした。鬼の仕業なら怨気が残っていることがある。2日も経っているならもう残っていない可能性もあるが、行かないよりはいい。何よりじっとして居られなかった。

高架下

 泉谷家から事件の起こった高架下まで、そんなに遠くはない。直線距離にして約2km、渓が通っている桜華学園と方角は反対側になるが距離的には変わらないはずだ。
 そんな事件が起こったことも驚きだったが、こんなにも学校の近くで起こった事件でありながら噂にもならなかったことが驚きだ。第一発見者は霧咲刑事の話によると、桜華の生徒だったという。生徒の名前は羽取 侑真。聞き覚えのある名前だなと思い返しながら、ふと思い出す。

 確か、クラスメイトが噂していた先輩の名前も羽取ではなかったろうか。
『訪ねてみる必要がありそうだ』
 思い出しきったとき、ちょうど現場だったという高架下にたどりつく。学校区と雑居ビルが立ち並ぶ地域のちょうど間にあるようなこの場所は、何をしているのかわからない建物ばかりの場所だ。この国の首都はおかしなもので、人が息苦しくなるほどたくさんいるくせに、急にぽっかりといなくなる場所や時がある。この高架下も、ちょうどそう言う場所なのだ。

 日が暮れて、街灯がつき始めている。ちょうど帰宅時間のせいか、ガードレールに隔てられた先の道路をたくさんの車が行きかっている。その割に歩行者は少ない。それだけ中途半端な場所。橋の上を、緑の線の引かれた電車が走ってゆく。急に音が止む。人通りの途切れる空白の時間。
『逢魔が刻……』
 昔の人々は昼と夜が入れ替わるこのような時間帯をそう呼んだ。現実とそうでない世界の狭間。

 渓が目をつぶり、怨気が残留していないか集中する。
 何も、感じない。
 懐から紙を取り出し、息を吹きかけて投げる。紙はまるで生命を持ったかのように渓の背後に回る。
 渓が紙を目で追い、振り返ると、桜華の制服を着た青年が立っていた。

「何やってんの?」
 声をかけてきたのは、昨日覚えたばかりの顔。二宮だったか。紙は二宮にまっしぐらに飛んでいく。
「うわ、何コレ!熱っ!うわっ!」
 懐に隠していた護身刀を取り出し、すかさず二宮の首に突き付ける。
 刀を突き付け、両者が向かい合う形になる。二宮は臨戦態勢には入らず、ただひたすら驚いてる様子だ。手に持っていた紙袋を思わず落とし、がらんがらんと派手な音が鳴る。

 しばらく二宮の様子を見、徐々に渓は警戒を解く。刃を引いて一歩後ろに下がる。
「何やってるんですか、こんなところで。」
「そ、それはこっちの台詞だ!お前何こんなところで刀なんて持って……なんで着物なんだよ!コスプレイヤーか!」
 コスプレイヤーという単語を出す時点、大分落ち着きが戻ったのだろう。
「あとをつけて来たんですか?」
「人をストーカーみたく言うな!本当はもっと早く声かけようと思ってたんだよ!」
「じゃあどうして?」
「それは……」
 二宮はしどろもどろになり、落とした紙袋をつかむ。
「関係ねーだろ!知らねえよ!」
 捨て台詞のように叫びながら、元来た方向、桜花の方向へと走り去っていった。
 何しに来たんだろう。紙袋を落とした時の音……何か軽い箱のような。

 ああもしかして……お弁当箱を返そうとしたんだろうか。

 そう思いながらも、式符が反応したことに疑念を抱く。式符は、鬼の気に反応するようになっている。
 祖先に鬼がいたのだろうか。人間でも、たまに鬼を祖先に持つ者がいる。ぼう、と考えながらも、なんとなく戦意をそがれた気分になる。
 まあいい。明日学校に行ったら、第一発見者羽取 侑真に話を聞こう。

先輩

 羽取侑真は、とても真面目で気の弱そうな人。そう形容するのが一番しっくりくる、人畜無害な容姿と雰囲気の人だ。噂によると夜の風俗店で呼び込みのバイトの手伝いをしており、その時一緒に働いていた大学生の真木隼人への報復のとばっちりを受け、5月4日、つまり一週間前まで入院していたという。とばっちりで意識不明になった挙句、首なし死体を見つけたなど、ついていない人だ。
 切りそろえられた黒い髪、きちんと着こなした制服からは、とても風俗店などの仕事を手伝っていたようには見えない。

 幸いにして、羽取侑真は屋上で昼食をとるタイプらしい。いや、それとも教室や食堂で食べているとひっきりなしに生徒が来るから、比較的生徒の数が少ない屋上に来たのだろうか。まあそれでも質問に来る生徒はいるのだが、教室や食堂よりはましなのだろう。
 退院後一週間経った今も、入院の話題で羽取先輩を訪ねる生徒は少なくないらしい。遠目にもいかにもうんざりした様子で質問に答えている様子がわかる。耳をそばだてずとも、殺人事件の目撃の様子は語ってないことは雰囲気で分かる。
 どうやって聞き出そうか。それが問題だ。彼が殺人の目撃者だと知っているのは校内では渓だけだ。

『だんだん面倒になってきたな……』
 事件の第一発見者だからとて、警察に聞かれて喋ることはもう喋っているだろう。警察がどこまで信用できるかはわからないが、彼が怪しいのなら、警察のほうから渓にそれとなく伝えるくらいあるだろう。第一、目の前の羽取という人間はあまりにも善良そうで、とてもじゃないが人間に危害を与えるようには見えない。

『さて、羽取先輩は視えるほうだろうか。』
 桜華に来ている生徒は大抵が術師の素質を持っていて、ヒト成らざるものを見る能力を持っているものが多い。渓が使役する式神も、そういう素質のあるものには見抜かれることもある。もっとも、そう簡単に見破られない自信はあるが。

 ものはためし。式神の寄代となる白い紙を丸め、息をかける。すると紙は一瞬空中でふわりと丸まって、かわいらしい白い犬の姿へ変化した。
 阿吽の方割れ、阿だ。その姿が視えるものには、ポメラニアンのような白くてふわふわした犬に見えるだろう。式神は使役する人間によってその外見を変化させる。泉谷9代目の出す巨大な狼のような阿を思い出し、自分はまだまだだなと薄く思いながら、渓は羽取の横へ近づいた。

 どうやら羽取は"視えない"ほうらしい。だからと言って出しっぱなしにして、他の生徒に感づかれるのも面倒だ。
『この匂いを覚えろ。』
 渓が声を出さずに命令を出し、阿がうなづく。阿は羽取の周りをはふんはふんかぎまわり、渓の元へ尻尾を振って戻ってくる。どうやら臭いを覚えたようだ。
 何気なく空を眺めてるふうを装って、阿を再び元の紙の姿に戻す。羽取先輩が登校の際あの高架下を通るのなら、途中までは渓と帰り道が同じだろう。放課後を待ち、生徒が散ってから阿に羽取を尾行させよう。渓本人が尾行るよりはいいだろう。
 教室に戻ろうと立ち上がり、振り向くとそこにはまた二宮が立っていた。
「お前、今の犬……何?」
 ばか。羽取の周りを囲んでいたゴシップ好きの生徒たちに聞き耳を立てられるのはマズイ。
「お前昨日だってそうだったろ、なんかアヤシイ札」
 いいかけた二宮にラリアットを食らわす形で首に腕を絡め、そのままの体勢で校舎に戻る扉へと引きずる。

 そのまま扉の中に入ると、外に漏れない程度、しかし怒りはばっちりとこもった声で渓が言う。
「いいですか、あなたに見鬼の能力があるのはわかりました。あなたが何者にせよ、これ以上僕の邪魔をしようとするなら」
「じゃ、邪魔なんてしてねーだろうが!昨日も今日も一昨日もちょっと話かけただけで」
「それが邪魔だというのです。」
 ピシャリと言い切る。
 茫然と、少し怒ったように困惑した二宮を残して、渓はその場を去る。

 二宮。思い出した。
 最初の文字に いろはにほへと を冠する術師の集団、【匂色機関】その筆頭泉谷。
 続く陸原(ろくはら)、蛇草(はぐさ)、二宮(にのみや)、焔村(ほむら)、戸木(へぎ)、鳥落(とりおち)
 ……第四句目の術師、二宮家。

 術師を代表する家系でありながら、欲望に走り敵である鬼の娘を娶った恥知らずな家系。

 割とどこにでもある苗字のため、あまり意識していなかった。あの少年、二宮に術符が反応したのは、その鬼の子孫だからだ。鬼をせん滅する術師を養育する桜華学園に、鬼の血を引く生徒を入学させるなどとんでもなくばかばかしい、間違った行為だ。
 二宮、彼がその二宮なら、確か彼の兄も教員としてこの学校にいるはずだ。
 もし彼が僕の邪魔をするようなら、僕は二宮の血筋を許さない。第二句目、陸原の血を引く校長の思惑がなんであれ、筆頭泉谷の名にかけて──彼らを永遠にこの学園から追放してやる。

尾行

 羽取先輩を式神阿に尾行させ、初めの2日間は何事もなく過ぎた。
 3日目。阿が帰ってこない。

 2件目の殺人事件が起こったことを知ったのは、その翌日だった。

 警察から知ったわけではない、彼らが来るとしたら今夜だろう。渓は下校中、式神の気配の途絶えたところを探しているところだった。式神の気配が途切れたのは前の現場より北、羽取先輩がバイトをしていたという噂の猥雑な町の中だった。若者の町だが、行きかう人の中に学生の姿はあまりない。いや、学生なのだろうが皆思い思いの服装をしており、渓のように学生服をきちんと着ている学生があまりいない、といったほうが正しい。
 現場はビルとビルの谷間。殺人事件が起こったことは現場で作業している人たちを見れば明らかだった。現場の人は渓の事を知らない。当然だ、鬼のことを秘密としている世間で、匂色機関であることが効力を発揮する相手は警察関係者の中でもごく一部にすぎない。
 そこでは詳しいことは聞き出せない。家に帰って霧咲刑事に連絡をするか、連絡待ちだ。同一犯だとしたら、間をおかない殺人だ。

 式神阿には、羽取先輩を尾行させていた。今日の羽取先輩も渓は屋上で見かけていただけだったが、特に怪しいところは見られなかった。渓程の年齢で渓のつくりだした式神を消滅させ、疲弊せずにいられるものはそうそういないだろう。もともと落ちついた雰囲気の人だし、深く知っているわけではないが、式神と戦ったと思われる傷や疲労は見受けられなかった。

 だとすると誰が式神阿を消した?

 羽取先輩が鬼であるという可能性を考えてみたが、すぐに取り消した。世代を経て血が薄まったならともかく、本人が鬼であればすぐにそれとわかる。それに羽取先輩が鬼であるならば4月の末日、彼が巻き込まれた事件で人間なんかにやられるはずがない。
 なんにせよ羽取先輩の近くでことが起こっているのは確かだ。4月末日の事件から、調べてみる必要がありそうだ。

藤城事務所

「また、死体が発見されたようですよ。」
 清水が大学ノートをぱらぱらさせ、目的のページを開き藤城に見せる。
「情報元はその町の住人。まあ俗に言うチンピラってやつです。」
 普段清潔そうに着こなしている服装のまま情報源の若者たちの中に溶け込める清水のほうが、そういう連中より性質が悪そうだな。そう思いながら藤城は報告を聞く。
「最初の肉団子事件以後、立て続けに血液抜き去り首無し死体事件が起こりましたが犯人はおそらく別でしょうね。今回起こったのは首なし事件が2件目。記念すべき連続殺人事件です。」
「記念すべき……なぁ」
 とっぷりと暮れた町、事務所の窓に清水と藤城、2人の影が映る。

「事件は肉団子事件が5月2日、一件目の首なしが5月8日、二件目の首なしが5月13日、つまり一昨日です。僕が事件を知ったのはついさっき、学校が終わった帰りついでに遊んでいた時に友人から聞きました。」

 清水が通う大学は、事件現場と事務所の間にある。清水の家がこの近隣であることは確かだが、ときどき手伝いに来るこの青年の住処を突き止めたこと、また突き止めようと思ったことはない。おそらくはあの町の少々外れのほうにある、学生寮にでも住んでいるのだろう。
 散歩ついでと言いながら、ぐるりの反対側の名物雷おこしを買ってくる程度の行動範囲の広さを持つ青年のため、定かではないが。
「3つの事件はいずれも深夜に行われたようです。最初の事件と3件目の事件は距離的にとても近い。」

 大学ノートに簡略な地図を描き、三つの事件現場を点で示す。
「通常の人間が起こすにしては凄惨で特殊な事件のため術師の仕業を疑いましたが、そういうわけでもなさそうですね。事件現場は霊的にも位置的にもなんの意味もない。」
 点を線で結び、歪な三角形を作る。
「興味深い話は、この事件で無くなった3人の被害者が全員同じ不良グループの一員だったということですね。」
「その話、詳しく聞かせてくれ。」

アパート

 ピンポーン

 安アパートの、それにふさわしい安っぽいチャイムの音が鳴る。
 渓が学生寮として使われている安アパート、羽取の家の前に来たのは、式神阿がいなくなった2日後、警察から第二の事件を聞かされた翌日のことだ。
 羽取はこの日、学校を休んだ。
 渓は届けものを頼まれたということにして、でたらめな荷物を持って家まで来た。羽取の家に来る前に真木について調べたところ、どうやら真木は地方から上京し一人暮らしだったという。生前彼と知り合いだったということにして、借りてたものを返したいが、他にあてがないということでいいだろう。実際聞き込みをしている途中、知らない男性から預かったCDがある。ラップ系の、なんだか軟体唇モンスターのような名前が付いたとグループのものだが、渓はこういう音楽は聞かない。

 殺人犯と思しき男の家に突如尋ねるのは危険なことにも思えたが、真昼の、しかも自分の家で何も知らない後輩を殺害するほど吹っ切れているとも思えない。まあ、端的に言うと渓が面倒くさくなったのだ。

 念のために消えた式神阿の方割れ、吽を従えている。吽は阿と同じくらいの大きさで、見鬼の能力を持つ者には黒犬に見えるだろう。阿を消したのが羽取だとして、学校では阿に気がつかないふりをしていても、流石に同じような式神を見て少しでも動揺しないとは考えづらい。

 ピンポーン

 出ない……。
 持ち去られた生首が家にあるとしたら、開けたくないのもわかる。しかし吽が反応していないということは、そういうものは無いということだ。吽は、通常の世界の臭いはよくわからないが、霊的な臭いを嗅ぎ取る能力には優れている。

 ピンポーン

 ガチャ

 3回目のチャイムでやっとドアが開いた。

「……誰?」
 本当に具合の悪そうな顔だ。
「羽取、侑真先輩ですよね?これ、真木さんから借りていたものなんですが。」
 真木の名前を出した途端、羽取の顔色が変わった。
「……真木さんから?」
 何かに怯えているような顔に、渓は疑問を持った。真木は羽取と一緒に殴られ、死亡した被害者だ。差し出した荷物に羽取が気を取られている隙に、式神吽が家の中に入り込む。
「ええ。」
「最近真木さんに会った?」
 おかしなことを言う。

 その怯えた顔からは、人間の気配しか感じない。部屋に上がり込んだ吽にも気が付いていない様子だし、羽取はただの人間だ。
「いえ、4月に借りて、真木さんが亡くなってそのまま……」
「そう……じゃあ俺が預かっとく。」
 奪い取るように荷物を受け取る。すかさずドアを閉めようとする羽取に、吽が抜け出す時間を稼ぐ意味でも声をかける。
「先輩、真木さんと友達だったんですよね。じゃあ真木さんを殺した不良について何か知ってます?」
 適当に思いついた質問だったのだが、意外と効果があったらしい。
「あんた、真木さんの何?」
「友人です。」
 当たり障りのない回答。それでも相手は納得したようだ。
「帰ってくれ、これで……もう……終わりなんだ。次は……俺の番だ。」
 乾いた笑い声。
「どういうことなんです?」
「わからないなら、よかった。帰ったほうがいい。」
 今度こそ渓を追い出そうとする羽取。吽は戻ってきている。このまま帰っても問題は無い。だけど、羽取の態度がどうしても気になった。
「もう、かかわるな。」
 安アパートの扉が閉められた。

「吽、どうでした?」
 吽が、くぅんくぅんと鼻を鳴らして渓の周りをくるくると回る。
「何もなかったんですか。」
 はふん、と首を縦に振る吽。
「吽、あなたは羽取先輩を見張っててください。何か行動を起こしたら、僕に知らせに来て。攻撃とかはしちゃいけませんよ。」
 はぅんはぅんと尻尾を振りまくる吽を残し、渓は羽取のアパートを去った。

前兆

「人間の血液量をご存知ですか?成人男性なら、約5リットルはある。」
 清水が言うのは、連続首なし事件の被害者から血液が抜き取られていたという点だ。
「ヘマトフィリア、俗に言う吸血鬼のように血液を嗜好する精神的な疾患がありますが、たとえ他者の血液を嗜好する癖があったとして、一度に5リットルもの血液を飲み干すことが人間に可能でしょうか?」
「となるとやっぱり鬼か。」
「その可能性が大きいということです。切除された部位は見つかっていないわけですから、注射器のようなもので事前に血液を抜き去っていたということもあり得ますし。」
 自分で言いながらも、清水は思う。矛盾だらけだ。歯形を残しておきながら首を狩る行為も、首だけを持ち去った行為も。
「俺自身、遺体を調べたわけじゃないので。現場からは怨気を検出することはできませんでしたが……歯型から直接調べれば、もしかしたら。」

「智恵美は?」
 警察一課、異犯の書類だらけのオフィスで声を出したのは成田だ。
「霧咲さんなら、遺体の歯型から検出された怨気を追跡してますよぉ。」
 答えたのは焔村。茶色いロングヘアの、ふんわりした印象の女性だ。
「警察のデータベースにも、匂色の文献にも無い鬼ってことで、足で探しに行きましたぁ。殺害されてたのが同じ不良グループの少年だってわかったから、少年課のモザイクさんを引っ張って現場巡りに行ってるはずですよぉ。」

「今日のパトロールは城島さんと一緒っすかぁ!」
 快活な笑い声を出したのは鈴木だ。
「本当はモザイクと一緒だったはずなんだがな、一課のおっかない女に連れてかれたから、今日はお前とパトロールだ。」
 不機嫌な顔でパトカーを運転するのは城島。警官は2人一組でパトロールする。
『あー、さっさと終わらせて光月に会いたいなぁ』
「うおー城島さん!空見てくださいよ!すっげー月が光ってるっす!」
「び、びっくりしたお前はエスパーか!」
「何がっす?そんなことより城島さん、ほらアレ見てくださいよ」
 日が傾き、居並ぶビル群に飲み込まれていく。
 その反対がわから、月齢が満ちきった月が顔をのぞかせる。
「今日は満月っすね!」
 5月17日。夜が、始まる。

満月

 満月の晩には、魔力が高まる。
 鬼が動くとしたら、今日という日ほど絶好の日和は無い。

 吽が渓の元に知らせを持ってきたのは、5月17日夜10時過ぎのことだった。
 急いで起き上がり、そのまま準備をする。
 ちょうど眠りに就こうとしていた渓はパジャマとして浴衣を着ていた。じい様の若いころには下着のような扱いだったらしいが、現代社会では浴衣で外に出ても別におかしくは無い。ただ少し冷えるので、適当な羽織に袖を通す。
 霊木で作られた愛用の護身刀を帯にはさみ、吽の後を追い外に出た。

 見上げると月は新円を描いている。ひと月ほど前まで月を覆っていた桜の雲も無くなり、煌々と輝いている。
 概念歪曲場。そう呼ばれる異空間を、鬼はそれぞれ持っている。それは一般の人間に自らの存在を悟られないようにするためのものであり、「狩り」をしやすくするものでもある。
 渓のような術師もまた、似たような【場】を用いることがあるがそれは鬼が用いるときと意味合いが異なる。術師が一般人に自らの存在を悟られないようにするのは、彼らを遠ざけ、鬼との戦いに巻き込まないようにするためである。

 吽が、振り返りながら渓を案内する。
 渓は違和感を感じていた。吽の様子からすると、現場はもうすぐだ。なのにいつも感じる鬼の概念歪曲場の気配がしない。……いや、しないというのは間違っている。微弱な、鬼のような……鬼にしてはそれが、弱すぎるのだ。
 吽が導くのは、羽取先輩が4月の末日に襲われた町、そのエリアに入る少し手前のビジネス街だ。ビジネス街というのは少し規模が小さいか、事務所が集中するエリアだ。昼に働いていた人々は帰り、夜になれば静まり返る。商店にはシャッターが下ろされ、普段なら悪ガキどもが騒いでいてもおかしくはないのだが、連日の事件のせいかこのあたりにはいない。

 がきっ、がきっ、ぐきっ。

 不愉快な音が、ビルとビルの間から聞こえてくる。これほどまでに近づいてやっと、概念歪曲場の痕跡を感じることができた。

 がきっ、ぐきっ。がつん。

 おかしい。

 ごきっ、ばきん。

 鬼の気配は、音の出所と違う。
 対象に気づかれないように、慎重にビルから顔をのぞかせる。
 渓は思わず息をのんだ。

 人の首を、誰かが切っている。
 首を切っていたのは、羽鳥侑真。

 首を切られているのは、ジーンズにトレーナーを着た、少年のようだ。首に残された歯型と、ほんの少しだけ残されていた血液の飛散は、渓の距離からは見えない。

 次の瞬間、渓の後ろ側から大きな音がした。
『なっ……?!』
 概念歪曲場の気配。振り向くと、すでに何もいない。数メートル離れたところにあったゴミ箱が倒れていた。
『こんなに近づくまで察知できないなんて……』

 物音に羽取が気がついた。
「お前は……」
 目を見開いて、驚いたような顔で渓を見つめている。
「どうしてここに、いや、そんなことより……」
 ひどく混乱している様子だ。
 首を切る手を止めて、渓へと斧を向ける。血液の抜け切った遺体だ、血は滴っていない。ただ白い脂肪片だけが、ぬるりと光っている。
「だめだ、真木さん、こいつらはいいよ?でも、そいつまで殺してしまったら」
 鈍い痛みが後頭部に走った。殴られたと気がついたのは、地面に倒れた後。
「もう引き返せなくなってしまう。」
 髪の毛を引っ張られる。首元に鈍い痛みが走った。

ビルの戦い・序

「があああああああっ!」
 叫んだのは渓ではなく、首を噛んだほうだった。これ以上ないほど大きく開けた口からは、硝煙のように黒い煙が上がっている。

「被害者が首を食いちぎられていると言う予備知識を持って、何の準備もしてこないと思ったんですか?」

 渓の首筋には、清めの札が貼ってあった。強がりを言ったものの、殴られた衝撃はかなり強かった。立ち上がりはしたものの、ひどくふらつく。
 腰にさした護身刀を抜く。
「我汝を呼ぶ!東方に鎮座す青龍の眷族よ!!」
 木でつくられた刀身が途端に水へと変化する。
『これが真木……隼人?』
 襲いかかってきた【もの】は、人とも、鬼とすらも呼べないものだった。
 かろうじて人型を保ったそれは、所々が朽ち、白いものが見えている。
 外見的には人型の枯れ木、とでもいおうか。ひどく乾き、みている傍からボロボロと崩れている。

 鬼のできそこないのひどいもの。

 渓が最期の言霊と共に刃を突きたてようとした時、誰かが着物の袂を引っ張った。そのせいで刃がそれ、致命傷を与えるには至らなかった。
「羽鳥先輩?!どうして邪魔をするんですか!!」
 涙でぐずぐずになった羽鳥の顔が、振りかえった渓の怒りを迷わせた。

「だって……あれは……あれは真木さんなんだ……」

「何を言って……ちっ!」
 狼狽する羽取を引っ張り、ビルの一つに逃げ込む。
「あれはもう、人間じゃない。羽取先輩、真木さんに何があったか、知ってるんですか?」
 渓の言葉に、真木が激しく頭を振る。

「俺……怖かったんだ。あの日、あいつらが俺と真木さんを殺そうとした。俺は、俺の横で真木さんの命が無くなっていくのがわかったんだ。その時あいつが、金髪金目の男が、俺が望めば真木さんを生き返らせてやるって言った。
 俺はもちろん、その提案に乗ったよ。だって、真木さんは俺の恩人なんだ。」
 そして金髪金目の男と話した後、羽取は意識を失ったという。
「でも……目覚めてみたら、真木さんは死んだって聞かされた。俺は、あいつが嘘をついたと思った。だけど……」
 寒さに耐えるように、自分の肩を抱く。

「あいつは嘘なんて付かなかった。真木さんは帰ってきた。最初はあんな状態じゃなかった、もっと口も利いたよ、少し何かがおかしいくらいだった。俺、嬉しかった。なのに……!日が経つにつれて、ああやって崩れて……。真木さんは血を欲しがった。俺は怖かった。真木さんに喰われることも、真木さんが襲ったチンピラ達が同じものになって俺に襲いかかってくることも……だから……だから真木さんの食事が終わったら、あいつらの首を切ったんだ。あいつらが生きかえらないように……!」
 渓に言ってるとも、誰に言ってるともつかない、悪夢のなかで自分を落ちつかせているような言い方。

「……待ってください、その……生き返るって?」
「だって、あいつ……吸血鬼なんだ……!よくあるだろ、吸血鬼が血を吸った人間は、同じような化け物になるって!怖い、怖い……怖いんだ、あんなのが増えるだなんて……」
 恐怖のあまり、人間の首を切る……正常な人間の感覚ではない。それほどまでに羽鳥は追い詰められていたと言うことか。金髪金目の男の話を聞こうと思ったが、羽取は錯乱してそれどころではない。
「真木さんを生き返らせてほしいと願ったのは俺なんだ……だから……」

 羽取の眼が、渓を見る。先ほどの理性のある目ではなかった。
「俺が、真木さんの餌を見つけないと──」
 羽取が持っていた斧を振りおろすより早く、渓はビルから逃げ出した。

 ビルの外には、真木が立っていた。

ビルの戦い・1

「おい、何だあれ……」
 パトカーから身を乗り出した城島の眼に、着物姿の少年とそれをつかむ同じくらいの年の少年、そして一周り大きな青年らしき人影が見えた。城島たちの位置からは化け物と化した真木はシルエットにしか見えず、着物姿の少年がナイフのようなもの、もう一人の少年が斧を持っているということだけが目に入る。
「うぉおおおい鈴木!ガキの喧嘩だ、エモノを持ってるぞ!全力で止めるぜ!」
「おお!補導!補導っす!!」
 勢いよくサイレンを鳴らし、少年たちの元へとパトカーを急がせる。
「そこのジャリども!喧嘩はやめーい!」
 急に現れたパトカーに、着物姿の少年が何か言った。

 サイレンにかき消され、声は聞こえない。
「何ィ?」
 と身を乗り出した城島を急いで鈴木がひき戻したのと、それが窓の外に現れたのはほとんど同時だった。
「うわなんだこれ!!なんだこれ!!」
「化け物!化け物っす!!」
 運転席に座っていた城島が、ほとんど鈴木を押しつぶす形で助手席のほうへ寄る。開け放した窓から、それが手を突っ込んでくる。
「あっち行くっす!!」

 ぱんぱんぱん!

 乾いた音が、夜の街にこだまする。
「鈴木、人間だったらどうする!」
 とか言いながら、城島は素早く窓を閉める。それは銃弾など撃たれなかったかのように、懲りずに窓をたたき続ける。
「本部!こちら城島!化け物を発見した、応援頼む!」
 言い終わったか終わらないかの瞬間に、窓ガラスが割れる。再び車内に手を突っ込んできた化け物が城島に触れそうになった時、化け物が叫び声をあげた。
 着物姿の少年が、化け物に刀を突き立てている。
「っ……早く車を発進させてください!!」
 パトカーにへばりつく真木に渓が護身刀を突き立てる。
「子供置いていけるか!」
 パトカーから2人が飛び出してくる。鈴木がもう2発真木に銃弾をたたきこむ。

「ぐあっ!」
 羽鳥が斧で鈴木の後頭部を殴りつけた。
「っ……やめろ!真木さんを撃つなっ!」

「鈴木!」
 鈴木から大量の血液があふれ出す。気を失ったのか、鈴木はぐったりと目を閉じている。
「このっ……!」

 城島が羽取を後ろ手に抑え、手錠をかける。

「鈴木!しっかりしろ鈴木!!」
 城島に襲いかかろうとする真木。

 すかさず渓が刀を突き立てる。
「ぎゃあああああああああああ!」
『威力が足りない……!』
 もともと渓の術は結界などに適した術であり、攻撃に的してはいない。加えて先ほど受けた噛まれた首筋の血が、清めの力を半減させている。
 攻撃は致命傷には至らず、真木は振りかえり渓に襲いかかろうとする。
 先ほど噛みついた傷口を狙い、ジャブのように手を振り回してくる。

 渓は気がついた。この化け物は、血の匂いに強く反応している。
 血を流す鈴木と、それを抑える城島に結界を張る。
 先ほど噛まれた部分から、札をはがす。
 簡易的な結界だが、真木はノーガードの渓のほうを狙って来るはずだ。
「こっちだ!」
 狙い通り、真木は渓のほうを追いかけてきた。

 そのまま、雑居ビルの中へとおびき寄せていく。

ビルの戦い・2

 ビルの階段を駆け上る。
 足は、わずかに渓のほうが早いようだ。渓に続き真木が追いかけてくる。
 階段は四角形のらせん状に続き、業務時間を終えた事務所の看板が暗いビルの中に並ぶ。ビルは普通の事務所に使われるようなもので、高さは5階建て程度だろう。清めの印を結びながら階段を上るが、あまり術を練る時間はなさそうだ。
 呪文を詠唱しながら、先ほどの羽取の言葉を思い出す。
『真木さんを生き返らせてほしいと願ったのは俺なんだ……』

 金髪金目の男。

 不完全な、鬼とも呼べない化け物が、後ろから追いかけてくる。
 気がついたことがある。
 この不完全な化け物は、羽取が言った通り『吸血鬼』に似ている。他者の血液を渇望する、といった点で。
 西欧の化け物に対して、日本特有の術が効きづらいということはある。だが、この化け物は決定的に何かがおかしい。鬼や化け物としての気配をまとっているが、意思が弱すぎる。
 人間が鬼になる際は相当の感情のエネルギーが必要になる。概念歪曲場が脆弱なのも、この薄弱な意思のせいであろう。自分からなったのでないとすると

 何者かに作られた──金髪金目の男によって、このようにされたのか?

 この化け物は、鬼として不完全なだけに、泉谷の術が効きづらい。
 カサカサに干からびようとする気味の悪い存在でありながら、呪術的にはまだヒトに近いのだ。

 術が効かないのなら、肉体的に破壊するしかない。

 思いあたり、渓の胸に不安がよぎった。
 渓は呪術的な破壊力は強いが、肉体的には威力に欠ける。先ほどの警察官の打った拳銃に耐えたところからも、真木の肉体的耐久力は相当のものだろう。
 護身刀を握り締める。勝てるかわからなくとも、一般人を鬼との戦いに巻き込むわけにはいかない。自分の選んだ道は、間違ってはいないはずだ。

 屋上へ続く扉。
 幸い閉まってはいない。出たからと言って、相手を捲けるわけではないが、ビルから突き落とすくらいはできる。

 ビルの屋上は、月明かり照らされていた。
 振り返ると自分の影と、真木の姿が見えた。月光に照らされ、その様子がよくわかる。
 生きたまま、いや、死んでいるのか。朽木のうろのような、どろんとした眼。かろうじて人間とわかる顔、先端が爪状になった四肢に、はがれおちていく皮膚。
 鎖をはずされた猛犬のように、真木が渓に飛びかかる。

「封っ!」

 渓が護身刀を持った手を円形に一周させると、空中に水の円が飛び出す。
 高レベルの鬼なら、拘束して一定時間封印できるものだ。だが、霊的な意味の薄い真木には効果が無いようだ。あっさりと水円を突破する。
 渓はビルの端にいる。飛びかかってきた真木を受け流し、落とすつもりだ。身体能力的に人間と大差ないなら、受け流せる。

 ただ

 やはり、そううまくはいかないようだ。
 真木の筋力、反射神経は人間のそれをはるかに超えていた。
 受け流そうとした渓の腕をとっさにつかみ、逆に引き倒す。
 馬乗りになる形で渓にのしかかり、先ほどの傷跡──首にかみついた。

「うわああああああああああああああぁああ!」

 悲鳴を上げるのは、渓の番だった。

ビルの戦い・3

 ぐきっ、ぐき。
 手の骨が、悲鳴を上げる音が聞こえる。そんなことすらわからない位に、意識がかすむ。
 ぐびっ、ぐび。
 首もとから、生命が奪われていく音。

 ここで……

 終わるわけには……

 ばきっ

 突如、視界から真木が消えた。

「なんや、あいつが言った相手って、これか?」
 黒い髪、赤紫の眼。歪んだ笑顔の青年が、月をバックに立っていた。蹴りをかましたのだろう、片足で立っている。

「ふざけよって。ロキのやつ、こんなつまらないモノで俺が満足すると思ったんやろか?」
 続く素早い中段蹴り。倒れた真木を、地面を踏み固めるかのようにためらいなく何度も踏みつける。
 ばきばきばき、と、骨の砕ける音がする。人の形だったものがかさかさに乾き、まるで氷の塊を踏み砕くかのように、ぱきぱきぱき、と砕けてく。
「何や、こんなんでも一応いっちょ前の鬼みたいな消え方するんやな。」
 嘲りを浴びながら、真木だったものは完全に砕け、その欠片さえも砕け散って粒子となり、風に舞い消えた。気配的に、青年は完全な鬼ではない、鬼人だろう。

「生まれ変わって出直せ、アホ。」

 吐き捨てる。そこに転がっている死にかけの渓のことなど、どうでもいいようだ。
 遠くから、サイレンの音が聞こえる。警察のサイレンの音、続いて救急車の音。
「なんや、智恵美やん。異犯の連中もいっぱいおるし……ちっ、今回は分が悪いか。」
 青年が、憎々しげに自分の指をかむ。
 青年はそのまま高低差のある隣のビルまで飛び移り、渓の視界から消えた。

 ぼんやりとした意識で、渓はその様子を見ていた。
 結果的に、鬼人に助けられたことになった。真木を倒すのを阻害したのは、人間である羽取だった。自分を殺そうとしたのは、なりそこないの鬼にされた真木だった。
 おのれの無力が悔しいのか。よくわからない熱い感情が胸の中をかけ巡った。
 頬を伝う暖かさが涙なのか、血液なのか、分からなかった。

事件後

 真木の事件は、真木自体が消えた事もあり、羽鳥を障害罪と死体損壊罪で逮捕することで幕を閉じた。

 真木が起こした殺人事件は羽鳥の歯型と一致しなかったことと、大量の血液がどこに消えたかなどの立証ができず、事実上迷宮入りとなった。羽鳥が刈り取った被害者の首は依然見つかっていない。羽鳥自身も首は現場に放置したはずだと供述しており、事実羽鳥の部屋、及び近隣で首は発見されなかった。
 第一課異犯においてのみこの事件は【鬼が起こした事件】としてファイリングされ、表向きにこの事件は未解決事件として処理された。
 城島は無傷、鈴木巡査もぱっくりと皮膚は裂け頭蓋骨は陥没したものの、脳に障害はないようだ。本人曰く「ハゲにならないか心配」程度で、後遺症なども特にないという。
 結果的に渓達を救ったことになった黒い髪、赤紫の瞳の青年の正体も、分からないままだ。

 泉谷渓は、病院のベッドでその報告を聞いていた。
「羽鳥については心神喪失による減刑が認められるかもね。」
 静かな個室。清水が痛々しく包帯の巻かれた渓の首と手首をみる。
「渓、無茶しすぎ。総代、心配していらっしゃったよ。あの方にしては珍しく少し怒ってたと思う。」
 清水の言う総代とは、渓の祖父澪の事だ。
「俺も少し怒ってる。どうして僕に教えてくれなかったのかな?」
 緑色の眼が、渓の目を覗きこむ。
「……意地っぱりだね渓は。どーせ一人で解決しようと思ったんだろう。」
 渓は、人に頼ることが苦手だ。
「良いかい渓、誰にも頼らないで自分で解決しようとする姿勢は立派だ。でもそれは次に総代になる人間のすることじゃない。当主たるもの強くあろうとしたんだろうけど、君がやったことはただの無謀。術師の総大将が倒れたら、誰が鬼との戦の指揮をとるの?」
 渓の手がシーツを握り締める。その様子を静かに潤が見る。
「……ま、気付かなかった俺も悪いけど。」
 渓本人も痛いほどわかっている。その事を清水は知っている。
「渓は、出会った時から変わらないな。」

 初等部の入学式、強がって気分が悪くなって倒れた渓を思い出しくすりと笑う。
「もっと頼りにしてよ。血筋なんか関係なく、俺は俺の意思で君を守りたいのだから。」
 数代前に分かたれた家系、血統の離れた傍系の従兄の顔は、不思議と自分よりも祖父に似ている。
「潤は、僕より強い。潤と僕が逆だったらよかったのに。」
 今回真木と戦ったのが潤であれば勝てたはずだ。浄化よりも破壊に適した潤の術は、物理的な破壊力も持っているし、あの程度の邪気で潤の術は揺らがない。

「馬鹿言っちゃいけないよ、渓。俺は、強いんじゃない。少しの穢れじゃ俺が汚れないのは、俺の方がよっぽど穢れてるからだ。君はまだ、これから強くなるんだよ。俺みたいな穢れに同調するものじゃない、浄化する、そういう存在なんだから。」
 少しくすんだ青色の髪を揺らして清水が笑う。
「傷が治ったらまた特訓だ。今回の件で、攻撃系の術も必要だって事がわかったし、物理的にも有効な水系の術を教えるよ。」
 渓の顔にぱっと笑顔がともる。誰にでもこの笑顔を向けれるようになればいいのに。
「ああ、そうだ。渓、これ誰かから君に。」
 清水が傍らの袋から、戸木屋名物のヨーカンを取りだした。
「……誰かから?」
「うん。名乗らなかったからね。黒髪の、渓と同じくらいの年齢の子。」
 空のお弁当箱に、思い当たる節があった。
『学校の屋上で会ったあいつ……』
 二宮。
 渓の様子に勘づき、清水が微笑む。

「渓、また潔癖症を発揮したのかい?」
 渓の頬に赤みが射す。
「弁当箱を持ってきた彼の様子で大体判断ついたよ。彼には俺から謝っておいたから。退院したら、お礼を言いに行くと良い。」
「潤、ありがとう。」
 俺にじゃないよ、といった潤に、渓がわかっていると応える。無愛想で誤解されがちな従弟に、潤がやさしく語りかける。

「渓、君にはきっと沢山の仲間ができるよ。」

警視庁刑事部捜査一課特異犯捜査班

 霧咲智恵美が、荒々しく歩きまわるせいで、普段から書類の山が大変なことになっている異犯は余計大変なことになっていた。
 霧咲が荒れるのも当然のことだろう。事件の最後にに渓が見たと言う黒髪に赤紫の瞳の青年。それは恐らく長年彼女が追ってきた連続殺人鬼だった。
「智恵美、荒れる気持ちは分かるが大概にせい、首探しのほうが先決や。」
「そんなことわかってます!」
 分かってるからこそ余計気がはやるのだろう。彼女が5年間追い続けた犯人がこの町にいることが分かったのだから。本当ならこのまま出かけて行って、遠くに逃げないうちに逮捕したいに違いない。
 何と言っても彼は、彼女の最大の敵にして、血を分けた弟なのだから。

Epilogue

 TRRRRRRR……PI!
「よ、やっぱり電話をよこしたな?そんな剣幕で怒るなよ。殺し甲斐なかったって?俺の予想よりお前が強かったかな、それとも……ま、どっちにしろお前は電話をよこすと思ったよ。……怒るなって。
 ……なあお前やっぱり退屈なんだろ。俺もさ。これからも面白いモノ見つけたらお前に連絡やるよ。いらない?遠慮するなって。最終的にはお前が限界まで強くなっても勝てるかわからないような奴と戦わせてやるからさ、もちろんタイマンで、さ。それまで俺の遊びに付き合えよ。……チェ、切りやがった。」

 雑居ビルの一室、首つり死体を横目に見ながら、それの生前の持ち物だった革張りのソファーに座りウォルナットのテーブルに足を投げ出す。
「なぁ、お前も運命からは逃げられなかった。あいつも、また電話してくるさ。」
 金髪金目の青年ロキは満足げに笑う。
「思ったより役に立たなかったかな、あの玩具。ま、霧咲恭士があれを補える以上の力を持っていたらいいだけの話だ。……さて、玩具が壊した人間の首を拾ってった鬼の糞餓鬼、あいつはどういう風に動く駒になるかな?」

「で、藤城さん、今回調べてた事件は結局何の収穫もなかったんですね?」
 藤城のデスクの前で、赤いメガネをぎらつかせながらみゃーこが詰め寄る。
「収入もなし!情報もなし!時間も浪費する!!結果またスカンピンじゃないですかあああ!どうするんですか来月の光熱費と水道代!食費は藤城さんのを削るにしろ、私のお給料まで出ないと私まで強制ダイエットになるんですよ!!」
「まあみゃーこ、戸木屋名物ぴよこでも食べて心を落ち着かせろよ。」
「落ち着くと思ってるんですか!!ふざけないでください!!第一ぴよこなんてまた無駄遣いして!!来月こそはちゃんと収入を得なかったら鬼じゃなくて藤城さんを退治してやるううううう!」
 口論する2人の頭上から、金髪の美少女が現れる。
「もー、また喧嘩?」
「ユキちゃん!聞いてください!また事件解決が警察のものになったうえに、こちらには鬼の情報一つも入らなかったんですよおおおお!私のUSBが鬼の情報が欲しいと泣いています、泣いてるんですううううううぅ!」
 みゃーこの絶叫は、すがすがしい5月の空に吸い込まれていった。

 正義とは相対的なものであり
 いつも万華鏡のように回り様々な側面を見せる。
 何を正義とするかは
 結局は舞台を最後まで見た観客にゆだねられるものである。

 相対正義論 完

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